差 間 の 歴 史
本村は古時、見沼領に属した。
この村は正保、元禄年間等の国図には指間村と記してある。
明治初年当初から差間村と称す。
明治22年4月1日町村制改正し、北原村、間宮村、下野田村、玄藩新田を合併して
大門村となる。
(境 界) 東は大門村、北原村、南は源左エ門新田、木曽呂村、西は内野村、下山
口新田、西北は北原村飛地、北は間宮村、大門町と境す。
(村の大きさ) 東西1,460メートル 南北1,462メートル
(村の沿革) 小田原北條氏の滅亡後、天正18年(1590年)徳川の御料所とな
り、大官の所轄地であった。石高41石。享保(1720年)の頃、伊奈半左エ門
が知行見沼用水掘割の替地に賜ったが寛政4年伊奈氏断絶して領地没収され、再び
御料地となり、明治元年武蔵知県事に属し、同2年大宮県、ついで浦和県と改称、
同4年埼玉県の管轄となった。
(戸 数)本籍51戸、社3、寺1 計55戸
(人 口)男158人、女151人 計309人
(牛 馬)オス馬 9頭
(舟 車)耕作船1、荷車4
(神 社)浅間社、村社、村の北方にあり、木花咲 姫命を祭る。
(祭日 毎年7月1日)
(稲荷社)村の北方にあり、倉稲魂命を祀る。
(菅原社)村の北方にあり、菅原道真を祀る。
(仏寺)興照寺、村の北方にあり、新義真言宗、大門町大興寺の末派である。
昭和22年10月1日現在
戸数71戸、人口男238人、女238人 計476人
昭和31年3月22日、野田村、大門村、戸塚村合併し美園村となる。
昭和37年5月 1日廃置分合して、大門村の一部(行衛、差間)及び戸塚村全部が川
口市へ合併し、大門村の残り及び野田村全部が浦和市へ合併した。
戸数71戸、人口男238人、女238人 計476人
昭和37年5月1日より差間町会発足する。
戸数74戸、人口男232人、女239人 計471人
○昭和56年6月1日現在
" 世帯数452戸、人口男964人、女849人 計1,813人"
(住民票513戸)
○昭和59年8月1日現在
" 世帯数558戸、人口男1,054人、女976人 計2,030人"
" (住民票606戸 2,211人)"
○昭和61年7月1日現在
" 世帯数690戸、人口男1,311人、女1,207人 計2,518人"
" (住民票751戸 2,713人)"
○昭和62年3月31日現在
" 世帯数813戸、人口男1,519人、女1,429人 計2,948人"
○ 昭和62年 4月現在 751世帯(町会加入者)
平成 元年 4月現在 842世帯(町会加入者)
平成 2年 4月現在 967世帯(町会加入者)
" 平成 3年 4月現在 1,088世帯(町会加入者)"
" 平成 4年 4月現在 1,165世帯(町会加入者)"
" 平成 5年 4月現在 1,200世帯(町会加入者)"
" 平成 6年 4月現在 1,316世帯(町会加入者)"
" 平成14年 4月現在 1,494世帯(町会加入者)"
" 平成22年11月現在 1,639世帯(町会加入者)"