十 条 仲 原 一 丁 目 町 会 の 発 足
1.昭和14年 旧十条仲原一丁目町会結成
2.昭和22年 占領軍の命令により解散
3.昭和25年 現在の十条仲原一丁目町会が誕生
4.昭和36年 町会会館を現在地(十条仲原1-22-5)に木造2階建て(2
階賃室6部屋)を建設
5.平成 2年 仲一会館(建面積63.99㎡延面積127.98㎡)に改築、落成した
町 会 法 人 化
1.平成15年 町会法人化に向けて役員会等検討会を実施
2.平成17年 十条仲原一丁目町会が法人として発足
3.平成17年 法人町会として会則を改定し施行
町 会 の お も な 出 来 事
1.昭和50年 町会設立25周年記念行事挙行
2.平成17年 王子消防署主催の防災コンクールに優賞
以降連続5年連続入賞
3.平成18年 十条仲原一丁目児童遊園が新しく安全な公園に改装され、香木の
かおりゆたかな公園となる
4.平成19年 町会に防災非常時整備機材救急用品非常食を確保
5.平成21年 古井戸を活用して非常時の生活用水を確保するための設備をし、
住民多数参加し防災演習を行う
6.平成22年 第6回地域の防火防災功労賞の優秀賞を消防総監より受賞
十条銀座商店街のアーケード設置
1.昭和52年 全国でも珍しく非常時に備え開閉式アーケード(排煙設備用)と
非常ベルを設置し、消防活動に容易な送水口やアーケードの上に
通路を渡す等配慮されたもの
2.平成10年 更に広く明るいものとなる
3.平成21年 十条銀座商店街は七町連合と非常災害時に非常食等の提携を結ぶ
七町連合と祭礼のこと(やっぱり下町・神輿がつなぐ地域の絆)
1.昭和57年 3町会(仲原一丁目、上十条二丁目、上十条三丁目)連合で十条
銀座商店街を神輿が巡行した
2.昭和59年 更に仲原二四町会、仲原三丁目、上十条四丁目、上十条五丁目の
4町会が加わり第一回七町連合神輿大会が挙行された
3.平成13年 仲一町会 大人神輿を購入する
(総唐破風型)(寸法2尺2寸)(総重量約300kg)(担ぎ手約200人)
4.平成13年 中型の前神輿の修理を行う
5.平成13年 子供神輿を有志から寄贈される
6.平成13年 お囃子の会が神輿を先導する
7.平成15年 お囃子育成会を町会が承認。経費を助成
※仲一睦会は祭り半纏やお囃子等各種行事に協力
※七町連合は地域の振興と発展に尽力
仲 一 延 寿 ク ラ ブ に つ い て
昭和35年 十条出張所管内全町会合同の老人クラブが結成され仲一延寿ク
ラブと名称された
昭和55年 各町会ごとの老人会に分かれて活動することになり仲原一丁目
老人クラブが仲一延寿クラブの名称を受けついて発足した
※初代会長は 安部常介 昭和35年~昭和55年 20年在任
2代 中島正治 昭和55年~平成 5年 13年在任
3代 福田徳行 平成 5年~平成21年 16年在任
4代 武井 茂 平成21年~
十 条 の 歴 史 と 北 区 の 誕 生
●十条村のあゆみ
十条仲原の「仲原」という名称は、昔この地域が農村だったころの地名で、「上十条
村字仲原」という字名(あざな)から来ています。戦前、王子一帯が今の町名に改編
されたとき、地元の人たちが「仲原」という地名を残してほしいと要望し、「十条仲原」
という町名になったといわれています。町会の歴史をたどる前に、郷土・十条村のあ
ゆみを簡単に振り返っておくことにしましょう。
中世の十条村 十条という地名の由来は、条里制の名残だとか、紀州の「十畳峠」に
因んだものという説など、幾つかの説がありますが、確かなことはよく分かりません。
歴史の史料に「十条」という地名が初めて出て来るのは、室町時代のこと。文安5年
(1448)「熊野領豊島年貢目録」という史料に「十条 作人平部」「十条郷 作人三平」
と書かれており、北区を中心に現在の東京西北部を支配していた豪族・豊島氏の配下
で、十条の作人(農民)が熊野那智大社へ年貢を納入していたことが分かります。
古くから豊島氏は紀州の熊野神社と関係が深く、豊島郡の総鎮守であった王子神社
(王子権現社)も、熊野から勧請された神社と言われています。十条村は古来、王子
神社の氏子域となっており、村人たちの先祖には、熊野に縁の深い一族が少なくあり
ません。やがて豊島氏は太田道灌に滅ぼされ、戦国時代この地域は太田氏、上杉氏、
小田原北条氏と次々に領主が変わっていきました。そして最後に、徳川家康が天下を
支配し、大平の江戸時代が始まります。
寛永寺領だった十条村 3代将軍・家光の没後、その霊廟が建てられた上野の寛永
寺には広大な領地が与えられましたが、十条村もこの時、寛永寺の領地になりました。
将軍家の菩提寺であった寛永寺は、歴代「輪王寺宮」と称する皇族が住職となり、江
戸時代の寺院勢力の頂点にありました。ですから村人たちは自分たちの領主をとても
誇りに思い、寛永寺領であることを名誉なことと感じていたようです。幕末、戊辰戦
争の時も寛永寺領の農民たちは幕府軍に味方したという話が伝わっています。
江戸時代のいつ頃からか、十条村は上十条村と下十条村に分かれ、別々に名主が置か
れました。仲原のある上十条村の名主は、代々高木善蔵家(絶家)がつとめたと言わ
れています。他に、飯郷孫右衛門家や高城市左衛門家、庄野利左衛門家、高木甚五右
衛門家、醍醐久衛門家などが村役人をつとめました。上十条と下十条の境目は、おお
よそ王子第5小学校→十条駅→冨士神社→東十条駅→王子5丁目団地辺りでした。こ
の境目から北側が上十条、南側が下十条です。今の東十条が下十条だったと勘違いさ
れがちですが、上十条1丁目や中十条1,2丁目など高台地区もかつて下十条だった
のです。
村の集落「ズシ」 村は幾つかの集落に分かれており、この辺りでは集落のことを
ズシと呼びました。上十条村には、宿新田、北口新堀、横町三塚、前新田という4つ
の集落(ズシ)があり、下十条村は、宿、仲才、下、南、七軒町、原、谷津という7
つのズシに分かれていました。それぞれ15軒から30軒くらいで1つのズシを構成
し、月番と呼ばれる月替わりの雑用当番を順番に各家が務めていたそうです。現在の
町会と同じようなことを江戸時代の農民たちもしていたのです。
やがて大正時代になると十条の人口が急に増加して、ズシの制度では住民の自治が
困難になり、「町内会」を結成するようになります。宿新田は「本宿町会」、新堀は「西
町会」、横町三塚は「仲原町会」、前新田は「大塚町会」をそれぞれ結成。今の仲原1
丁目は、この中で「仲原町会」と「大塚町会」の中間くらいに当たります。
●明治・大正・戦前の十条と仲原
鉄道開通と軍工場の建設 明治16年、十条村に陸蒸気(SL)が通りました。東北線の
開通です。このとき王子駅が開業し、王子地域発展の基礎が築かれます。2年後の明
治18年には現在の埼京線(当時は山手線品川・川口間鉄道)も開通。明治22年に
王子、上十条、下十条、豊島、堀ノ内、舟方村の一部が合併して新制・王子村が誕生
します。急速に発展した王子村は明治41年に「王子町」となり、名実ともに村から
町へと変わっていきました。
明治の中頃から周囲には軍の施設が次々と作られ、明治38年に十条台へ東京砲兵
工廠が移転して来ました。現在の十条駐屯地、中央公園、王子養護学校などを含む広
大な用地が陸軍の兵器工場となったのです。大勢の工員や軍関係者を収容するため、
十条は一気に人口が増え、駅が必要とされました。そこで地元の人々が停車場の誘致
を請願して寄付金を集め、明治43年11月に十条駅が開業しました。今年、平成2
2年はちょうど十条駅開業から100周年を迎えます。
同潤会住宅と町の発展 軍工場の周りは明治の頃から都市化していきますが、仲原
地区は大正時代まで農村のままでした。しかし大正12年9月、関東大震災が発生し、
東京の低地部や都心部で壊滅的な被害を受けました。これにより、都心部の住民が郊
外へ大勢移住するようになり、十条地区の人口も一挙に急増します。特に、震災被災
者を収容するため現在の十条仲原3丁目に同潤会住宅(約400戸)が建設され、仲
原地区は大正末期に突然、農村から町へと発展していきました。
急激に人口が増えたことにより、まず小学校が必要となりました。そこで大正15
年9月、同潤会住宅の近くに王子第3小学校が開校します。さらに7年後の昭和8年
には王子第5小学校も開校しました。いかに急激な人口増加であったかを物語るもの
でしょう。人口増加はまた、大量の食料品や日用品の需要を生み、商店が必要とされ
ました。そこで、十条駅と同潤会住宅を結ぶ一本道に商店街が自然と形成されていき
ました。これが現在の十条銀座へと発展していきます。
王子区の誕生と町の区画改編 関東大震災による郊外への人口流出は、都市圏を急速
に大きく外側へ広げていきました。震災復興事業による道路整備や鉄道網の延長等も
あり、「東京」という都市は一気に倍以上の大きさに拡大していったのです。その結果、
昭和7年10月1日、東京市は周辺の府下82町村を合併して15区から35区とな
り、500万都市が誕生しました。王子町は岩淵町と合併して王子区が誕生。十条の
住民は王子区民となりました。
やがて東京市では、市街地の区画再編成を進めることとなり、王子地区も従来の千
何百何番地というものから何丁目何番地という呼び方に変えるため、新しい町名によ
る区画改編を行うこととなりました。それまでの上十条町、下十条町という町名は廃
止して、新たに北十条、西十条、中十条、東十条、岸町という町名案が役所から提示
され、地元で話し合いが行われました。その結果、最終的に「西十条」案は「上十条」
に修正され、「北十条」案は、「十条仲原」に修正されたようです。こうして、昭和1
4年1月に「十条仲原」という新しい町名が誕生したのです。
●戦前の「十条仲原1丁目町会」
実は、戦前にも十条仲原一丁目町会という町内会がありました。昭和14年に新し
い町名制が施行されてから、既存の町内会が次々と解散し、新たな町名区画に基づい
た町内会へと移行していく中で、十条仲原一丁目でも町内会が結成されたようです。
戦前の町内会は、戦前の町会とは異なり、今で言えば区役所の出張所で行っているよ
うな公共事務手続きの一部も担っていました。こうした戦前の町内会制度は、「隣組」
制度と共に地域行政の末端に位置づけられ、戦時下の国民統制体制を象徴する組織と
なっていたのです。そのため、戦後は占領軍によって「町内会」「隣組」の解散が命じ
られました。ですから、十条仲原一丁目町会も昭和22年に解散したものと見られま
す。
終 戦 後 の 制 度 改 革 と 北 区 の 誕 生
戦災により東京23区は焼け野原になり、その惨状は関東大震災の2倍以上の未曾
有のものでした。
昭和15年に667万8千人の区部の人口が、昭和20年11月には277万7千
人と40%になったと言われています。
新しい日本の中心都市・東京を造るためには新しい区画、道路等の整備が必要になり
ました。
天皇を頂点とした超国家主義の中央集権制度から「民主主義」という言葉と、新し
い法律が制定され、地方自治法が昭和22年施行されて、それにより「区」に大幅な
権限が委譲される事となり、独立区的な性格をもてるようになりました。
従来の行政区画では不均衡が生じるおそれがあり、35区を22区に統合すること
になり、王子区・滝野川区と赤羽が合併して北区が誕生しました。
「区名決定」には(王子・滝野川の何れか)(飛鳥・飛鳥山・赤羽・京北・城北の何
れか)(桜区にする)等の議論がなされたが、京北・城北より東京の北にあり、分かり
やすいとの意見が大勢を締め「北区」となりました。