谷中真島町会

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真島町の沿革
 真島町の町名の由来は、江戸時代の初期から明治の初めまでの二百数十年間に亘って、この地を邸としていた美作の国(岡山県)勝山真島藩主三浦氏が江戸の下屋敷として住んでいたので明治五年にこの邸と近隣の武家地を併せて町名とされたものです。
 この三浦氏の始祖三浦壱岐守正次は徳川三代将軍家光に仕え二万石を領していたが、ある時家光の狩りに供奉して猪を射止めた功労によってこの地を拝領したと伝えられております。
 三浦氏はその後下野国(栃木県)壬生(みぶ)に移り、更に壱岐守明敬のとき三千石の加増を受けて日向国(宮城県)延岡の城主となりました。正徳二年三河国(愛媛県)刈谷城主の後三十三年を経て延亭四年明敬の孫義理は西尾城を始め、その子明次は明和元年祖先の地であった真島に復帰して明治に至るまでの百余年間を過ごし明治四年薩摩置県によって最後の藩主顕次は子爵に叙せられ治領の真島県知事に任ぜられたが、明治九年この県も岡山県真島郡と変り又郡区町村編成法の施行によって明治二十四年隣郡大庭郡と合併して現在は真庭郡となって「真島」の名称は地元から消えてしまったのです。
 しかし三百数十年続いた江戸の下屋敷であった本町だけは「真島」の町名で発展して来たがこれも昭和四十二年一月一日の「住居表示制度」によって町域の大部分が谷中二丁目となり、又一部は谷中四丁目に編入されていまは町会名と老人クラブ「真島クラブ」「真島稲荷」公衆浴場「真島湯」だけに旧名の名残を止めています。
 明治五年に初めて町名がつけられた当時の記録によれば、戸数19戸、人口74人の町で、全町が一番地であったのも頷かれます。明治、大正と年を重ね、東京の人口の増加と共に本町も栄え、幸いにして関東大震災にも何等の被害もなく平和で静かな住居地でしたが太平洋戦争の勃発によって昭和二十年三月四日午前八時四十五分敵機百数十機の大空襲を受け谷中に大被害を蒙り、谷中二、三、五丁目の死者80名、重傷者50名、軽傷者120名、行方不明若干名、全壊家屋95、半壊家屋100との帝都防空本部の発表でした。しかし、この発表は実際とは相当の違いがあって当時の死者は約300名位と推定されています。当時私は真島町第十二郡長(現代の二丁目一番七号辺)として警戒に当たっていて実際に目撃し、罹災者に乾パンを配給した記憶は終生忘れられません。

 当時の町会長は高橋喬遷氏で高橋氏は三十有余年会長を務めておりましたが終戦と同時に駐留軍の指令で町会は解散を命じられ、町内は中心を失い無秩序状態となり、町民はただ食を求めるのに寧日ない有様でした。
昭和二十二年頃になり区よりの指示もあって赤十字奉仕団の結成を見ましたがこれも思うような活動もできないので昭和二十三年春故屋代順三さんの提唱で「間島クラブ」を組織し、町会に準ずる役割の分担等を決めて屋代さんを会長に推して町会らしいものが発足し、ようやく町に明るさが戻り祭りごと等も盛大に行われるようになりました。このクラブ名が現在の老人クラブの名称となっているのです。
昭和二十七年、大戦の講和条約も結ばれ自由となったのでクラブを発展的解消して現在の真島町町会に替えたものです。
(元会長木村春男氏の記述による)
歴代会長(昭和27年以降)
初代会長 樋 口 周 三氏
二代会長 大 橋 末 吉氏
三代会長 滝 沢 熊 吉氏
四代会長 佐 藤 仁 作氏
五代会長 木 村 春 雄氏
六代会長 屋 代 政之助氏
七代会長 大 橋 誠 一氏
八代会長 芦 川 三 郎氏
九代会長 吉 川 文 雄氏

 

 

 

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